八月の終わり頃
とある神社の境内で。(政争の具に度々される場所)
友人と、時間があったので、じゃ、行ってみようということに。
なんてことはない、風景。
八百万の神
どんなものにも魂(神)が宿り
それを大切にする心がある。(ばあちゃんに教わったタイ象)
たたそれだけ。
神社があれば、思わずご挨拶させていただくのは、タイ象が日本人であることの条件反射的行動か。
ま、ここの場所には特殊な事情があるのも確かなんだけど
これすなわち、よろしくないなどど一刀両断するのも、日本人らしくないというか、
歴史を冷静に分析し、自身の歴史を分析し
それを冷静に照合するのが現代人の姿勢かなと。
そういう気持ちをひっくるめたものを
そっくり否定するようなこと
あえて、ばかばかしいというか子供だましというか・・・・。
昔はこんなこと考えた事もなかったけど
息子が生まれてからは、真逆になったタイ象。
歴史とか伝統とか、すなわち、自分が育てられてきたいろんなもの
すべてが連綿となっていることに気づいてしまったタイ象であった。
タイ象はいたってニュートラルな考えのつもりなんだけど
これって、相対的なものだから
世間からするとと〜っても右寄りな(もしかして極がついたりして)考えか。
そうすると、千と千尋の物語は右寄りな映画なのか?
いや、実は、千尋が現実にもどる最後のほうのシーンは
あれは、やはり千の世界は非現実だということへの証なのだろうか。
だとすると左よりの映画なのかな?
なんていう議論はやはりばかばかしいか(笑)。
0 件のコメント:
コメントを投稿