いわゆる、狙った写真っていうと、こんな感じですよね。
色はiPhoneで変換して、いや〜なんか何処よ?これ?って感じになりますね〜
マンハッタンとか?(笑)
でも、僕自身はあまのじゃくなので、実はこういうのが好きだったりします。
下の写真↓
何で横断歩道が必要なのか、人が二人映っているのか、何故、この構図
つまり、上側のグレーの部分を入れているのか?
僕個人としてはちゃんと意味というか物語があるんですよね。
でも、作品としてはアウトらしいです。
もちろん、考え方ひとつですけどね。
ありのままを写すという方式もあるし
自身が気に入った方程式を用いて写すという方式もあるので、
コンテストとか写真展とか、いわゆる誰に向けて、誰にウケるか?っていうのを
想定するのも写真のうちだと、そういう意見がありました。
なるほど。
俺は、そんなつもりは無いし、単なる自己満足のトーシローですからね。
その人がどういう表現をしたいのかを、指導する人は助言したり、
技術的な部分をフォローしたり
そういうの、聞くと、非常に勉強になるな〜と思う。
でも、「◯◯でなければならない・・・・」という台詞を聞くと、
俺はやっぱり、なんかこう、反抗的な気持ちになってしまうんだな。
幼稚園の時、田中先生に、
サンタさんが入る煙突が無いのがおかしいではないか?と
言われて、泣きながら、絵を書き直した事がトラウマというか、
反骨心の始まりだったのかもしれない。
芸術とは自由なものではないか?
サンタが入る煙突がなくたって、サンタは家にやってくるし、
どのみちうちの煙突から突入出来るのは雀くらいだ。
サンタさんは入るのは無理でしょ?
サンタさん=西洋的なるもの=キリスト教っていう図式が
幼稚園の俺にはあって、
その絵、三角屋根の仮想家の屋根の上には、十字架を書いた訳。
つまり、教会みたいな家を書いた訳ね。
でね、
「これじゃ、煙突ないからサンタさんは入れないね。」と。
俺は、サンタは何となく、もやっと入ってくるとかなんとか、言ったと思うんだよね。
でも、
「サンタは煙突から入るものなのよ」とゴリ押しされ、
俺は泣く・・・・・(笑)
そして、十字架を煙突に修正したために、
すげーぶっとい煙突になってしまう。(心の中でまた泣く)
黒い画用紙に白いクレヨンで書いてるからね(笑)
そんな笑い話。
その後、小学校の時、中学校の時、に出会った先生達は、少なくとも美術の先生は
自由だったな〜テクニックをもっと習えば良かったな〜なんて、
大人になった今だと思うけど、子供のときはそこまでは思わないし
そこまで思う余裕も無かったな。
写真ね、何を表現したいか?
そこね、うん、
俺の場合は、まぁ、ノリですね、ノリ、そんときの気分。
ジャケ写です。下の空間に曲名とバンド名を入れて下さい(笑)
ね、ノリですわ。
それもアリってことで。
だから、何であのとき、こんな写真撮ったんだろ?ってのも多数ある訳ですはい。
0 件のコメント:
コメントを投稿